スターリング・ワールド

NatureTech Harmonyのブログへようこそ 2024年の東京でニートだったナカモトサトシは、2085年にタイムリープし地球防衛軍の総司令官となりました。広大な宇宙を舞台に、仲間たちと繰り広げるアドベンチャーストーリー。

第十五話③ デカルトの一日:意識の確認

ジョンがフランスの小さな町でデカルトとしての一日を追体験することに決めたのは1637年、デカルトが彼の著名な著作『方法序説』を発表した年でした。

 

ジョンはラ・エーにあるアパートの寝室で目を覚ましました。部屋は質素で、木製の家具がいくつかあり、壁は白く塗られていました。窓からは、町の屋根と煙突が見え、遠くに広がる田園風景が朝日に照らされていました。彼はベッドから起き上がり、小さな机の前に座り、ロウソクの灯りを点けて、昨夜書きかけの手稿に目を通しました。

 

ジョンが目を通した手稿は、デカルトが『方法序説』の中で展開している「方法的懐疑」という考え方に関するものでした。この手稿では、知識を得るためには、まず受け入れている全ての事柄について疑いを持つことから始めるべきだと説かれていました。デカルトは、確固たる真実に到達するためには、一旦すべての先入観や偏見から解放され、あらゆる知識や信念を根本から疑う必要があると主張しました。

 

ジョンはこの手稿を読むことで、デカルトがどのようにして自らの思考を根本から見直し、厳密な哲学的方法を築き上げようとしたかを追体験しました。手稿の中で、デカルトが個々の思想や信念を検証し、真実を求める姿勢は、ジョン自身の探求心にも影響を与え、自己の信念を再評価する契機となりました。

 

朝食を済ませた後、ジョンはデカルト日課であった長い散歩に出かけました。彼は町の石畳の道を歩き、哲学的な思索にふけりながら、自然の美しさに心を開きました。公園を通り抜け、小川のそばのベンチに座り、水の流れを見つめながら、存在と認識について深く考えました。

 

ジョンが考えていたのは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」という哲学的主張でした。彼は水の流れを観察しながら、自分の存在と認識の確かさについて熟考しました。デカルトは、外部の世界や他者の存在を疑うことができても、自己が思考するという行為そのものを疑うことはできないと結論付けました。この思考が「我思う、故に我あり」という言葉に結実しました。

 

ジョンは、外界の物事この場合は水の流れがどのように感知され、認識されるかについて考えながら、デカルトが主張するように、自らの認識が確かであることを自己の存在の証明として受け入れました。彼はこの思索を通じて、自分自身の思考がどのようにして自己の存在を保証するか、つまり自己認識の直接的な感覚がどのようにして真実をもたらすかを深く理解することができました。

 

この体験は、ジョンにとって、内省と自己確認の重要な機会となり、自身の思考と存在の関連性についての洞察を深める一助となりました。この過程で、ジョンはデカルトの哲学が自分自身の存在感や現実感を強化する手段としてどのように機能するかを具体的に感じ取ることができたのです。

 

散歩から戻ったジョンは、研究に没頭するために自室にこもりました。彼はデカルトが用いた古い羽ペンで手稿に向かい、数学と哲学の融合を試みる考察を書き進めました。夕暮れ時、彼は短い休憩をとり、窓から見える夕日に思いを馳せながら、「我思う、故に我あり」という考えがどのようにして彼の心に浮かんだのかを思い出しました。

 

デカルトが「我思う、故に我あり」という考えに至ったのは、彼が行った方法論的懐疑の過程の中でです。デカルトは、あらゆる知識や信念を疑い、唯一疑うことができない真実、すなわち自己の存在を確認しようとしました。彼は自分が思考することができる限り、自分が存在しているという確実な根拠を見出したのです。

 

この洞察は、デカルトが冬のある夜、暖かい部屋で瞑想しているときにひらめきました。彼は外の世界の知覚や物理的な感覚が錯覚である可能性を考えましたが、自分が思考しているという事実だけは否定できないことに気づきました。すなわち、「我思う、故に我あり」という考えは、外部世界のあらゆるものを疑っても、自己の思考という行為そのものは疑いようがないという認識から生まれたのです。

 

このエピファニーは、デカルトにとって哲学的な基盤となり、後の「方法序説」で詳細に展開されることになりました。彼はこの思考実験を通じて、哲学における確固たる出発点を築いたのです。ジョンがこのエピソードを追体験することで、確実な知識の基礎がどのようにして築かれるか、また個々の認識がどのようにして自己の存在を確認する手段となるかを深く理解することができました。

 

夜になり、ジョンはデカルトの考え方に触発されて自分自身の哲学的な見解を深く掘り下げました。彼はデカルトがどのようにして自己の存在を確認したか、そしてそれがどのようにして現代の思想に影響を与えているかを熟考しました。

 

ジョンは、「我思う、故に我あり」という命題を基に、自己の意識と外界の現実がどのように相互に関連しているのか、またその関係がどのようにして自己のアイデンティティや実存を形作っているのかを思索しました。彼は自身の日常生活での選択や決断が、どのようにして自己認識に根ざしているのかを考え、その過程で自己の確かな存在感と個人的な哲学の重要性を再確認しました。

 

日記には、この日の体験が彼の思考にどのような影響を与えたのか、そしてそれが彼の未来の選択や決断にどのように影響するかを綴りました。また、自分自身の存在と認識を疑うことの重要性、そしてそれがもたらす深い自己理解への道を探求する価値についても記録しました。ジョンはこの深い思索を通じて、自己の内面と外界との関係に新たな光を当てることができたのでした。

(後日談)

ジョン: エレノア、昨日のデカルト追体験は本当に目からウロコだったよ。フランスの古い町を歩いて、彼がどのようにして「我思う、故に我あり」に至ったのかを深く感じることができたんだ。

 

エレノア: それは興味深いわね。どんな瞬間が一番印象に残ったの?

 

ジョン: 特に、小川のそばで座って、水の流れを見つめながら、存在と認識について考えていた時間かな。そこでデカルトがどのように自己の確実性を見出し、疑うことからすべてを考え直したのかが理解できた気がするよ。

 

エレノア: それはすごい経験ね。自己の確認とは何か、それを体験することができたのね。

 

ジョン: ええ、まさにそうだよ。そして、夜は一人で座ってその日の経験を日記に記録したんだ。デカルトが自分の思考のみが確実な存在だと結論づけた瞬間、まるで時が止まったような静寂を感じたんだ。

 

エレノア: 私たちもその思考を通じて、自分たちの存在をもっと深く理解できるかもしれないわ。ジョン、あなたの経験を聞いて、私も自分自身の存在と向き合いたいと思ったわ。

 

ジョン: そうだね、エレノア。我々の旅はただの冒険ではなく、自己発見の旅でもあるんだ。デカルトとの一日は、その旅の一部として、とても重要な意味を持っているよ。